株式会社傳來工房

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社長ブログ

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春爛漫

おはようございます。

桜満開、良き春を向かえ絶好調です。

如何お過ごしでしょうか?

京都は京都市内中いたるところに、桜の観賞スポットがあります。

特に私が住んでいる松ヶ崎近辺には、宝ヶ池や植物園など桜の名所がたくさんあります。

そういう意味では、桜グルメと言えそうなんですが、

今年は「うーん これはすごい。」と言わざるを得ない桜見物を体験しました。


今年の正月、所属する会の新年懇親会のくじ引きの景品で、

琵琶湖疎水船の2人分の乗船券が当たりました。

4月7日、11時5分の指定券であったので、他の予定が入らなければ

良いけどな程度の認識でした。

蹴上から大津まで10人乗りぐらいの船に乗って35分の船旅です。

もっとも 大津から乗ると55分かかるらしいのですが、

我々の乗船券は下り路線でした。

乗り場の蹴上から桜満開、船に乗ってからはトンネルの中以外は、

桜のトンネルをくぐりながらの船旅でした。

桜の観賞スポット桜の観賞スポット


その日の夜は、友人から平安神宮の夜桜コンサートの

2名分の招待券を頂いていたのでそれに出向きました。

正直、昼間に堪能するほど桜を見ていたので、少しお酒が入った後、

わざわざ、平安神宮まで行くのは億劫だったのですが、

嫁さんに促されしぶしぶ出向きました。

桜の観賞スポット桜の観賞スポット

結論から言いますと、行かなければ後悔していたなと思いました。

「紅しだれカルテット(弦楽)」を聞きながら、水面に映った夜桜を

眺めるのは、幻想的な世界でした。

 

「長生きはするものだな」と冗談交じりに思いました。

是非機会があれば、疎水船、平安神宮の夜桜は見てください。

絶対おすすめです。

 



琵琶湖疏水

概要
琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したものである。両疏水を合わせ、23.65m3/sを滋賀県大津市三保ヶ崎で取水する。その内訳は、水道用水12.96m3/s、それ以外に水力発電、灌漑、下水の掃流、工業用水などに使われる。また、疏水を利用した水運も行なわれた。水力発電は通水の翌年に運転が開始され、営業用として日本初のものである。その電力は日本初の電車(京都電気鉄道、のち買収されて京都市電)を走らせるために利用され、さらに工業用動力としても使われて京都の近代化に貢献した。疎水を利用した水運は、琵琶湖と京都、さらに京都と伏見、宇治川を結んだ。落差の大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動された。水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止されたが、蹴上インクラインは一部の設備が静態保存されている。無鄰菴や平安神宮神苑、瓢亭、菊水、何有荘、円山公園をはじめとする東山の庭園に、また京都御所や東本願寺の防火用水としても利用されている。一部の区間は国の史跡に指定されている。また、疏水百選の1つである。

歴史
開通まで京都市は幕末の禁門の変で市中の多くが焼け、明治維新と東京奠都に伴い人口が減少し、産業も衰退した。このため、第3代京都府知事の北垣国道が灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画した。そして主任技術者として、工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎を任じ、設計監督にあたらせた。
第1疏水は1885年(明治18年)に着工し、1890年(明治23年)に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から分岐する疏水分線とが完成した。4月9日には明治天皇と昭憲皇太后の御臨幸を仰ぎ、竣工式を挙行している。 第1疏水(大津-鴨川合流点間)と疏水分線の建設には総額125万円の費用を要し、その財源には産業基立金、京都府、国費、市債や寄付金などのほか、市民に対しての目的税も充てられた。
また、水力発電は当初は計画されなかったが、田邉らがアメリカで視察したアイデアを取り入れ、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所を建設。1891年(明治24年)に運転が開始された。この電力を用いて、1895年(明治28年)には京都・伏見間で日本初となる電気鉄道である京都電気鉄道(京電)の運転が始まった。鴨川合流点から伏見堀詰の濠川までの鴨川運河は、1892年(明治25年)に着工し、1894年(明治27年)に完成した。
第2疏水は、第1疏水で賄いきれない電力需要に対応するとともに、新設する近代上水道のための水源として、京都市により「三大事業」の1つとして進められた。1908年(明治41年)に着工され1912年(明治45年)に完成し、取水量は第1第2合わせて毎秒850立方尺 (23.65m3) となった。日本初の急速濾過式浄水場である蹴上浄水場はこの時に設置されている。なお、疏水を掘り進める際に生じた砂は当時の滋賀県知事の許諾を得た上で、琵琶湖の埋め立てに用いられた。


平安神宮

1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として、平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。当初は実際に大内裏があった千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されたが、用地買収に失敗。1893年(明治26年)9月3日に地鎮祭が執り行われ、当時は郊外であった岡崎に実物の8分の5の規模で復元された。 1895年(明治28年)には平安神宮の創建と平安遷都1100年祭を盛大に奉祝する為、時代祭が始まった。



 [引用元:Wikipedia]

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