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2008年06月30日

西園寺公望(ブロンズレリーフ) - その壱

専務の橋本がブロンズ像等のブログを
作家先生との思い出を交え語っているのを読みながら
私としても何か厳かな話題をここらで一発書いておかねば。。と、
思い立ったが吉日!

今回は「西園寺公望公ブロンズレリーフ」という話題にて2回連載を企んでます。

西園寺公望(1849年〜1940年)
名前は聞いた事あるなぁ、と言う人の為に軽くおさらいです。
(私も調べながらほぅ、ほぅ、へぇ〜と。。)



明治15年、当時の内閣総理大臣であった伊藤博文が
憲法調査のためにヨーロッパを歴訪した際、
それに随行したことで西園寺公望の政治活動がはじまる。

第12・14代の内閣総理大臣を経て
「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼(ほひつ)し、
大正末期から昭和初期にかけて、後継首相推薦の任にあたった。

さて、西園寺公、偶像崇拝を嫌がり自分の彫像を造る事は無かったらしいが、
東京の神田駿河台の本邸だけに、彫刻家の武石弘三郎作による銅像が建てられていた。

しかし、関東大震災で本邸と共に破損をしてしまった。

西園寺の別邸を設計した建築家が破片を掘り起こし、繋ぎ合わせ、石膏像を復元。
西園寺の死後に西園寺がよく散策していた土地の
清水市、清見寺へ寄贈したのが昭和15年(1940年)。



時は流れて西暦2001年。
清見寺の副住職がお寺の押入れを掃除していたところ、
木箱に入った石膏の西園寺公を偶然に発見。
「なんじゃこりゃぁ〜!」と、松田優作になった副住職(この行、あくまでも杉村の想像です)



新聞にも載りました。



さてさて、ここで学校法人立命館さんの登場です。
実は西園寺公、現在の立命館大学の祖となる家塾(私塾)「立命館」の創始者。
立命館さんとして学祖の立体像は貴重な存在。
↓西園寺直筆文字です。


という訳で前置きが長くなりましたが、ようやく傳來工房の登場です。
ここで to be continued.. とさせて頂きます!

2008年06月15日

神戸税関保存再生

アルミ鋳物専門メーカーの傳來工房専務の橋本昇です。

母の墓のある高台寺さんにお墓参りに行くと
近くの坂本龍馬や中岡慎太郎のお墓にも時々寄ります。

しかし幕末の志士達は、倒幕をもくろんだ攘夷派だけではなかった。

日和見の多い徳川幕府側にも将来の日本を見据えた人物がいた。

軍艦奉行 勝 海舟(かつかいしゅう)


写真(勝 海舟)

海舟が将軍家茂に海外と対等に付き合うために海軍の必要性を説いた話は
有名だ。海舟の素晴らしいのは、そのために海軍の人材を育成する学校の
提言をしたことだ。

それが「神戸海軍操練所」として文久3年(1864)に開所された。


写真(神戸海軍操錬所)

明治維新後、
この建物が解体されこの地に明治6年神戸税関(神戸運上所)が建築された。


写真(初代神戸税関)

当時の神戸村住民は、「異国情緒たっぷりのなんとハイカラな建物」と
思ったことでしょう。

その後、大正時代に消失し昭和2年にその地に現在の神戸税関が出来た。

写真(現在の神戸税関)

神戸税関保存再生 設計:日建設計・建設省近畿地建  1999年

阪神大震災の影響もあり傷みも激しく一時は撤去の計画もあったらしいが
地元の強い要望により復元保存することとなった。

われわれ傳來工房は、本格的な意匠門扉をアルミ鋳物でお手伝いした。


写真(アルミ鋳物門扉)

国際都市神戸にふさわしい意匠でシンプルだが風格がある。
神戸港の潮風でもまったく腐食など影響のないアルミ鋳物を素材を使い
京都本社工場で鋳造した。


一般的には門扉は閉めた状態での意匠を重要視されるが、
今回はオープン状態での壁との収まりとディティールに工夫した。

担当設計部長が日建設計の川島克也氏で、そう言えば西陣生まれの
生粋の京都っ子だった事を今思い出した。
アルミ鋳物について高い見識をお持ちの建築家だった印象があり、
しばらくご無沙汰だがお元気だろうか・・


《余談》
神戸税関保存再生の仕事でここに前述の「神戸海軍操錬所」にあったことを知り、
勝海舟のべらんめぇ調の口述書物「氷川清話」を当時読んだ。


独自の国防論を持っていた海舟は、大阪で私塾「海軍塾」を主宰していた。
のちに「神戸海軍塾」となり門下生の中に塾頭として坂本龍馬がいた。

氷川清話には、この龍馬が最初会った時には自分を殺しに来たが
これからの国のあり方や考え方を説き、龍馬が共感し帰った談がある。

凄い。


右から龍馬、勝海舟、武田祐治(操錬所教授)

その後、龍馬を除く多くの塾生がこの新しく出来た幕府直轄の「神戸海軍操練所」
に移った。血の気の多い生徒の暴走や反海舟派の策略もあり、1年足らずで閉鎖
され、海舟も軍艦奉行罷免、蟄居となった。

龍馬には、これが人生の引き金となった。

幕府に失望した塾生達には金も力も何もなかったが国を変革する熱い思いだけで
亀山社中、海援隊を立ち上げ歴史を作っていく。

維新後、海舟の教え子だった陸奥宗光は外務大臣となり、
伊東祐亭は初代連合艦隊指令長官となり明治に活躍した。

しかし、海舟は育てた龍馬の暗殺による死を一番惜しがったに違いない。



写真(神戸税関横の記念碑)