株式会社傳來工房

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会社案内 – 鋳造の歴史

鋳造の歴史

人類と金属の出会い

紀元前5-6千年ごろ、人類は天然に産出された金銀と出会い、装飾品や木製道具に飾りとして使われました。鉄や銅はやや遅れましたが、銅は特に日用品・武器・農耕具など、人類が道具として生活に取り入れた最初の金属だといわれています。 この銅も最初は、自然産出される銅が使用されたようです。 地域は、エジプト・メソポタミア・ドナウ流域が、成分的に一致しているそうです。 その後、暖をとったり、炊事を行った時、偶然、薪を燃やした高温と酸化物が作用し、金属銅が遊離・溶解していくのを発見し、鉱石製錬などの冶金技術の基礎が築かれたようです。 こうした冶金技術が東北ペルシアとその東で発達し、メソポタミア地方を中心にアジア・ヨーロッパ・アフリカの各地で発展したといわれています。

人類と金属の出会い

鋳造の歴史

鋳造の歴史

初期の製錬で得られた銅塊は、叩いて成形したと想像できますが、紀元前3500年頃メソポタミアには、石に彫った型に溶けた銅を流し込む技術があったことが、出土品から確認されています。この技術の普及は、首長が技術者を抱え、日用品・武器などを生産することにより、その地域を統治する基盤となりました。 結果としてエジプト(紀元前3200年)、メソポタミア(紀元前2300年)、中国(紀元前1600年)などの統一国家が生まれました。

日本への伝承

前述の国々の中で一番関係の深い中国大陸では、商から春秋(紀元前770年~同475年)かけて青銅器の鋳造が盛んで、その技術もきわめてすぐれていたそうです。
戦国(紀元前475年~同221年)ころには、鉄製農具が普及し、鎌などの鉄鋳型が河北省で出土しています。こうした技術が朝鮮半島に伝わり、そのまま日本へ伝わったため、古代文明の発祥の地では銅から鉄へ技術が進歩したのですが、日本では二種の金属が同時に使用されたのは、大きな特色と言えるでしょう。
わが国で最初に鋳造が行われたのは、弥生時代中期(紀元前100年~100年)ごろと思われます。

日本への伝承

日本の鋳造の歴史

日本の鋳造の歴史

まず大陸から渡来した銅剣などが倣製されました。銅鐸の鋳造もこの頃から行われたと考えられています。弥生時代後期(100年~300年)には、朝鮮半島製の青銅器は影をひそめ、変わって我が国独特の形態を備えた鋳型が、発見されています。北九州では銅利器類の鋳型が発見され、日本で最初に鋳造が行われたと推測できます。この技術が北九州から西日本全体に及んでいきました。結果、北九州を中心とした銅剣・銅矛文化圏と畿内を中心とした銅鐸文化圏の二つが存在したようです。このことは、大陸からの技術者の渡来が、北九州からだけではなく、近畿圏にもその日本海から上陸し、琵琶湖畔から畿内への道があったと考えられています。

鋳造の発展

鋳造の発展

古墳時代の初期の鋳造品の主体は鏡である。中国より伝えられた鏡の模倣品が製作されていました。日本独自の様式のもの『和鏡』が製作されるようになったのは、ずっと後の平安時代に入ってからでした。古墳時代中期以降になりますと鏡の副葬品が減少し始め、変わって馬具や金銅製品が現れ、五世紀前半となるとさらにこの傾向は著しくなってまいります。

仏教の伝来

ここでかいつまんで仏教の歴史をお話いたします。
『日本書紀』によると、仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖王(聖明王)により釈迦仏の金銅像と経論他が献上された時だとされています。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』(聖徳太子の伝記)の「志癸島天皇御世 戊午年十月十二日」や『元興寺伽藍縁起』(元興寺の成り立ち・変遷を記述したもの)の「天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月」を根拠に538年(戊午年、宣化天皇3年)に仏教が伝えられたと考える人が多いようです。歴史の教科書にはこちらの年号が載っています。
この時、日本に多くの仏具も持ち込まれて、模倣した仏具が作られだしたのではないかと推測されています。この辺りが傳來工房のルーツとは考えられていますが、伝承もなく確信には至りません。奈良時代には中国や日本では仏教の発展に伴い律令法の中に僧尼の統制(仏教そのものの統制ではない)を定めた法令(僧尼令)が導入されました。だが、中国では、仏教の出家が「家」の秩序を破壊するなど、儒教論理に合わないとされ迫害されたのに対し、日本では「鎮護国家」の発想の下、「僧尼令」や僧綱・度牒制度が導入されて官僚組織の一員とまで化したのは興味深いことだと言えます(僧正・僧都などは律令制で定められた僧官)。もっともこうした統制について国家が建立した官寺とそれ以外の貴族や民衆によって建てられた民間寺院(私寺)とでは温度差があったともされ、後者に対する統制がどこまで行われていたかについては意見が分かれています。

飛鳥・奈良時代は大仏の時代

一般に仏教では丈六(座像で八尺約2.5m)の像を本格的なものとし、これ以上大きくなると大仏と呼ばれています。仏陀の尊容を強調し、自己の信仰心を満足させるため、このような巨大な仏像を創ろうとする試みは古くアジアを中心に世界各地で行われてきました。
中国教皇の4~5世紀の石造群をはじめ、インド5世紀ごろの涅槃像、ボンベイ洞窟の7世紀ごろのなどの大仏像が著名です。世界の巨大仏像の多くは石造か土像であるが、石窟や石材に恵まれず、過去に多量の銅を産出したわが国では、このような巨大仏像を銅合金の鋳造で作ろうと試みたのです。鋳造仏として記録に残る最古の飛鳥大仏(605年)、最大の大きさを誇る奈良大仏(752年)はそれぞれ当時の我が国の鋳造技術を結集させて見事完成させたものです。余談ですが奈良大仏の後、木造の仏像が増えました。木彫技術の進化とも言えますが、奈良大仏で多くの銅を使い切ったともいわれています。

飛鳥・奈良時代は大仏の時代

空海

ここで空海について記しましょう。なぜなら空海がもたらした技術が『傳來工房』の始まりだからです。
讃岐の国、今の香川県で空海は生まれました。幼名は真魚といいました。真魚は都で大学に入り学問を学びましたが、出家し僧の道を歩み始めます。その後仏教を学び、四国や和歌山で山岳修行・奈良など寺院で修行しています。804年私費の留学僧として遣唐使船に乗りました。その時乗り合わせたのが桓武天皇より派遣された最澄でした。平安時代の二大仏教、真言宗と天台宗の開祖となる二人の出会いです。やがて大使一行は半年かかり、長安へと入りました。804年12月の事でした。翌年大使一行は帰国の途につきましたが、空海は長安の西明寺に宿泊し、そこで5月まで醴泉時でインド僧般若三蔵及び牟尼室利三蔵からサンスクリット語やバラモンの教えを学んだとされています。

8世紀以降、唐では不空三蔵が、玄宗・粛宗・代宗の3代皇帝につかえて密教を教え、国師としてたたえられていました。密教は唐において宮廷宗教となり、大いに隆盛を誇っていましたが、空海はその不空の弟子恵果阿闍梨と出会うのでした。当時、各国の学僧たちが高名な恵果を訪ねて青龍寺に集まっていました。空海もその中の一人だったといわれています。

一目で空海を見初めた恵果は、当時1000名以上いた門下の中から空海に、胎蔵・金剛界の灌頂を授け、阿闍梨位の伝法灌頂を受けさせました。結局門下の中で両部の大法を相承したのは、日本人の空海一人でした。よって空海は『密教』のすべてを引き継いだのでした。大同元年(806年)10月、空海は無事帰国し、大宰府に滞在します。日本では、この年の3月に桓武天皇が崩御し、平城天皇が即位していました。

空海は、朝廷に『請来目録』を提出。唐から空海が持ち帰ったものは『請来目録』によれば、多数の経典類(新訳の経論など216部461巻)、両部大曼荼羅、祖師図、密教法具、阿闍梨付属物など膨大なものでした。当然、この目録に載っていない私的なものも別に数多くあったと考えられています。「未だ学ばざるを学び、〜聞かざるを聞く」(『請来目録』)、空海が請来したのは密教を含めた最新の文化体系でした。

空海

職人集団『傳來』の始まり

空海は大同元年(806年)10月の帰国後は、入京の許しを待って数年間大宰府に滞在することを余儀なくされました。大同2年より2年ほどは大宰府・観世音寺に止住していました。
この時期空海は、個人の法要を引き受け、その法要のために密教図像を制作するなどをしていました。大同4年(809年)、平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位しました。空海は、まず和泉国槇尾山寺に滞在し、7月の太政官符を待って入京、和気氏の私寺であった高雄山寺(後の神護寺)に入りました。この時、空海の持ち帰った最新の蝋型鋳造技術により職人集団『傳來』が誕生いたしました。

当時としては最新の技術『蝋型鋳造』が、一朝一夕で習得されたとは、考えにくいものです。それ以前にも、仏教伝来時に蝋型鋳造が伝えられていましたので、その流れの中で発展伝授されていたとみるのが妥当ですが、傳來工房は伝承の残るこの時を『傳來工房』の始まりとしています。

職人集団『傳來』の始まり

蝋型鋳造とは

我々、傳來工房の特色である蝋型鋳造とはどのようなものでしょう。 この技法が日本に伝えられたのは、奈良時代です。 法隆寺金堂の釈迦三尊像(623年)などはきわめて初期の優れた作品といえるでしょう。 この技法が日本において発展し、先ほど述べた空海が帰国し、多くの精巧な仏具、美術品を持ち帰りました。又、空海は当代一の技術者であり、知識人でした。その時に伝えられた技術が我々傳來工房の『バックボーン』なのです。

蝋型技法の特徴は、どんな複雑な形のものでも自由に作れるという造形性と鋳物表面の微妙な凸凹がそのまま伝えられることによって醸し出される鋳肌の美しさが物語る芸術性も兼ね備えているということです。特に芸術性においては、作者の心情を表現することが可能で、他の原型では表現できない機微までも再現できます。

明治の鋳金作家香取秀真先生は御著書『金工史談』の中で『木彫りの妙味、石膏型の妙味は、これを鋳物に移してまでも味合うことは不可能である。木彫や石膏型は便宜上鋳物の原型として用いるのに過ぎないのである。反して蝋型は、そのまま保存して賞玩すべきものではなくて、必ず鋳物にすべくも用いるのである。粘着力の強い柔軟な蝋、展延性に富んだ蝋、そしてゴムのようには弾力がない蝋は使用し馴れた者には、遥かに油土よりも自由自在な細工ができる。そしてその蝋型が、鋳物にされて銅なり鉄なりに写された時、自由自在に細工された柔らかさが、堅い銅鉄に変じているその間の妙趣は、筆に尽くされない、言語にも表しえない。そこが即ち蝋型の最大妙味で、他の原型の群を抜いた面白さである。』と述べられています。

蝋型鋳造とは
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